第6期3回目の感想(2016/7/22-24)
1. カレッジに参加して、持続可能なコミュニティへのあなたの理解は、どのように進化/深化しましたか? また、自分の中で起きた一番大切な変化があったとしたら、それは何ですか?
コミュニティ作りにおいて、まず、自分について深く知っていく作業をするとは、全く思いませんでした。自分が今までやったことのない新しいコミュニケーション方法を知ることが出来ました。そして、伝える手段に言葉が大事と思っていたけど、そうじゃ
ない方法(感情、表情、しぐさ、非言語)もあるし、そこも大切だと知りました。
(30代女性、おやぢ)
「人」を知る、ということ、改めて意識しました。そこからの、自分を知る、観る、聴くもスタート地点に立てるようです。
具体的には、一旦完結? していたと思っていた自分の気持ちや度量を、もう一度、「人」に観てもらい、知ってもらい、聴いてもらって、新たに新鮮な素材として扱っていこうと思います。
(40代女性 ひょうひょう)
検討会中、人の話を聴いているうちに、もうなくなったと思っていた嫌なものが、心の奥底にまだあったことに気付いた。しかし、その人が心を整理していく様子を聴くうちに、自分の心の中からも、いやなものが消えていった
(60代男性、T.S)
今回、まず自分の状態がどうかというところに、焦点を当てていけたかと思います。何もかも変わった、理解できたということは無く、ごく一点に変化があった、ということだったかと思います。状況に対して、自己放棄することをやめるということが、試せたと思います。
(40代男性、R.Y)
最終日の発表で、「コミュニティづくりの核心とは」を踊りで表現した。普段から踊っているわけではない。だから、はじめに踊ることを思いついたとき、やってみるのは怖かった。しかし、怖かったからこそ、やってみてその感じを確かめたかった。実感に寄り添って話をしたかった。じっさい、自分が発表するときは、怖くて、体が固まって、なかなか始められなかった。
第一回か二回で、話しあうことを妨げるのは何かという問いに、恐れという答えを出した。相手のモデルを自分でかってにつくって、それを恐れている。恐れ、恐れさせることで、コントロールされ、コントロールする関係がなりたっている。
怖いから、自分の気持ちを表現せず、無難に振る舞う。あるいは怖いから、話しかけない。関わることを諦める。正しい応答のあり方があるはずだと考えていて、そこから外れて間違った応答をしてしまうのが怖い。この恐れを克服すれば、あるいはこの恐れを生み出しているのが何かわかれば、もっと自由に人と関係を結べるだろう。
踊ってみるときに感じた怖さは、対話を妨げる怖さと同じなのだろうか。第一回であれば僕は踊れなかった。まだメンバーを恐れていた。今回はこの場の人を恐れてはいない。むしろ仲間たちだと思って信頼している。しかも、この場では思いを表現することが許されているという安心があった。こうした信頼や安心があったからこそ、僕は踊りだすことができた。
信頼や安心が、もっといえば愛が、恐れを小さくしているのは確かだろう。しかし恐れを生み出しているのは何なのか。恐れを生み出しているのは習慣である、と思う。踊りだすのは怖かった。でも踊りだしたら気分が乗って来て怖さはあまり感じなかった。踊る習慣が無かったから、踊るのは怖かった。踊るようになれば、踊るのは怖くない。冬の朝に布団から出るのと同じで、やってしまえば何ともない。多くの恐れについて、そう言うことができる気がする。
習慣は、習慣に沿った行為と、習慣から逸脱する行為を区別する。習慣から逸脱することは、怖い。おそらく普段から踊っていれば、踊らないことが怖くなる。普段から人に話しかけていれば、話しかけないことが怖くなる。恐れを生み出しているのは、習慣であるというより、習慣を固定化しようとする習慣だといったほうが良い。
あの踊りの意味について、オヤジさんに良く意味が分からなかったと言われた。自分でも、あの踊りをどう理解したらよいのか良くわからない。一応、「伝達」と「対話」そして伝達から対話への移行の「場」を表現するつもりでした。でも、あまり意味を解釈しようとしても仕方が無いと思う。それが何であったかより、何をしたかが大事なのかもしれない。
僕の後にダンスを踊ったひかりちゃんは、これまでの自分なら踊らなかったけれど、僕が踊ったのを見て、背中を押されて踊ったというようなことを言っていた。とてもありがたいと思う。周りがより自由に振る舞うきっかけになったのなら、僕が踊ったのは、とても良いことだった。
ただ、正直なところ、このカレッジを終わってみて、なぜかすこし寂しい気分がしました。
(30代男性 J.Y)
持続可能なコミュニティへの理解-----よこの繋がりを確かにしたいとか、失いたくないという不安から自分を押し殺すことが良いという間違った考えをしてきたことに気付けたように思います。自分の本当の思いを大事にしつつ繋がり直すことで、持続可能な関係をもう一度初心に還って育てていきたい。
自分の中で起きた一番大切な変化------自分自身に対して心が開けたこと。そしてそれが参加したメンバーにもできたこと。光を当てられることなく心の部屋の奥深くに見捨てられていた【想い】に光があたりそこにある事がはっきりした。そしてそこに光を当てることは、一人では無理だった。
光があたったのは、やっぱり太鼓がやりたかった。なんでも話せる関係が無くて寂しかった。やっぱり人が好き‼️ということ。
(50代男性、S.K)
2. カレッジで体験、理解したことの中で、これから、人生の中に取り入れていこう/いきたい と思う体験や、実践していこう/いきたいと思う体験などがあればお書き下さい。
違和感をそのままにせずに、気持ちや自分を現わしていきたいと思います。
(40代、R.Y)
自分の心を見る、思考に溜まったものを決めつけず、変化するものだと思って、新たな対話を人として実践していきたい。
(30代、おやぢ)
自分がしたいことと、すべきと思っていることとを切り分けることが大事だというのが、初回に気づいたことだった。前回の言葉でいえば気持ちの交通。今回、僕が対話と呼んでいたもの、あるいは、R,Yさんが「人」になりあうと言う言い方をしていたもの。これらは、この「したい」と「すべき」を切り分けて、自分が本当はどうしたいのかを見つめることによって成立するように思える。
もし、この二つの境界が最初から存在しているのなら、つまり「したい」のまわりに「すべき」がベールのように被さっているだけなら、そのベールを取り払うことで「したい」が見えるはずだ。
しかしそんなに単純な話ではないと思う。実際は「したい」と「すべき」は渾然一体となっていて、人は対話のなかで、それを創造的な仕方で切り分けていくことを通して、人になりあうのではないでしょうか。R.Yさんが、人に主体性があるのではなく、人と人の関係性に主体性があると言ったのはそういうことなのかと思う。
こうして書いている言葉は、だれかの書いた言葉の反響だし、あの場で話した言葉も誰かの話した言葉の反響だ。書いたり話したりするたびに、あるいは踊るたびに、僕を、僕の「したい」をつくっていく。この創造の過程が含まれているコミュニケーションが対話なのだろう。
この対話という創造的過程は、人間どうしのコミュニケーションだけでなく、動植物や、無生物の間にも程度の差はあれ存在すると思っています。このことをオカルトではなく、科学的に考えて行きたい。個体ではなく関係性のなかに主体性があるとすれば、これはまったく当然のことだと思う。
特に僕は建築の研究をしているのでモノとの対話に関心があります。モノを作ることは、それがどうあるべきかという考えを人間がモノに押しつけることだと考えられて来た。対話ではなく伝達です。モノがどうありたいのかということに寄り添ってモノを作るということはどういうことなのか。現代においてそれはどのようにしたら可能なのか。
(30代男性、J.Y)
持続可能な人と人の関わりをテーマに、どんな風にあったら自分にとって良いのか?参加したメンバーひとり一人の思いや考えを、素直に語り合い、聴き合い、分かち合う場を通してその場に【安心】が生み出されたように思います。
そしてそれをベースにして、さらにもっと深く語り合い、聴き合い、分かち合う事ができるようになっていったように思います。その積み重ねが参加者の心の解放をもたらして、共感、共鳴が生まれて人に対する不安、恐れ、疑いが溶けてゆき自然に人と人がつながる事ができたと思います。これから自分のいるフィールドで、こういう場を作り出す試みをしてゆきたい。
(50代男性、S.K)